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筆者の乗船していた 雄鵬丸 JCLV 29,354総トン 画像上の数字は重量トン

 私の若かった頃の船舶通信士としての体験です。

私は二級通信士で乗船しました。初乗船は27歳でした。何でこんな年齢になったかと言うと、23歳で私立の夜間の
無線学校に入り、卒業後2年半もかかって合格したからです。夜間部ですから卒業しても、何も免除科目はありません。
それどころか当時の予備試験は、一般常識、無線工学の基礎、英語となっていて、2次試験みたいに科目合格は
ありませんでした。

 当時は、極端に通信士が不足していたので、27歳でも入社することができました。初乗船は、鉄鉱石専用船・富浦丸で、
昭和41年3月でした。乗船時は、私の様な員外通信士を含め3直制でした。ただ法定の3直制なのか、船主と海員組合との
協定でそうなっていたのか、今となっては、定かではありません。新米の私が乗ってきたと言うので、当直分担が変更に
なりました。1日4時間の当直を2回やります。私が次席の当直(0:00〜04:00と12:00〜16:00)をやることになったのです。
本来の局長と三席当直時間は、もう記憶が定かではありません。

 乗船で分かったのですが、TL(一括呼出し)は、隻数が多いのでかなり速度が速く、20分以上もやっていました。
モールス符号は、国家試験と実務では、余りにも違いさっぱり分かりませんでした。次席の言うのは、
「TLが分かるようになれ、モールスの新聞放送(JJC)が取れる様になれ」
とのことでした。
  何しろ、新聞放送は1回1時間半位近くやっていて、再送も含め1日6回もやっていました。この間の休みは
SP(沈黙時間)の3分間が、2〜3位あるだけです。新米ですからテープレコーダーをかけて受信していました。時々次席が
入って来て「今、受信したものを見せろ」と言うので、見せると、「何でこんなに抜けているんだ」と叱られたものでした。
私は混信で取れなかった事を話すと、次席は、「短波は混信があるのが当たりめえだ!」と言われ、どうしようもねえ野郎だと
言う目つきをされました。電報は不明な所はブレークすれば、聞き返えせますが、放送ではそうはいきません。どうしても
不明な所は、局長や次席にお願いして、再送を受信してもらいました。国家試験と違い、遠距離の短波となると混信、雑音、
フェージングがあり大変でした。

 また、1万頓級の船でも大時化になるとかなりゆれますから、両足を開いて踏ん張り、受信するのです。その上に私の
船酔いですから何となく意識ももうろうとしているのです。受信成績が悪いと、局長と次席のお説教というか、罵倒を
聞かなければなりませんでした。

 また、JMCの気象があり、これもモールスで、殆ど数字で送られてきます。専用の天気図があり、直接書き込んで行きます。
高気圧、前線等は赤・青鉛筆を持って書いて行きます。練習はしていましたが、初航海では出来ませんから、何となく叱られ
気味でした。

 初航海でインドのマドラスに行ったのですが、停泊中に、次席から500KHzで聞こえる信号を
「今何といったか?」
と言うのですが、数回聞いても分からなかったので
「分かりません」
というと、
「何にい!分からねえだと、停泊中はここに座って自分で訓練しろ」
と言われました。VWM(マドラス局)なのですが、2航海目もここに来ました。その時はハッキリ聞こえました。
色々考えたのですが、一般的に後進国のモールスは品位が悪く、かつ何となく長音が短い感じでした。

 一方、新聞放送のモールスで局長、次席はと言うと、強い混信、雑音が在ってもちゃんと受信しているのです。
何しろ、その時の局長は60歳を過ぎていた嘱託の通信士ですから、ある程度の迄の混信、雑音は平気なのです。
なぜ強い混信、雑音でも受信できるのだろうか、と不思議に思っていました。しかし、2年位経ってから、何かの受信中に
強い混信があったのです。その時、目的の信号が、かなりの低音で、かつ小さな音で聞こえていたのです。目的の信号が
混変調で低音に変わって、聞こえていたのです。私はビックリしました。局長、次席の受信で殆ど字が抜けていないのは、
これを聞いていたのだなと納得しました。やはり経験の差でした。

 突然レーダーの話ですが、当時は真空管式ですから、よく故障しました。富浦丸に初乗船の時、夜中にブリッジから
「レーダーが故障した。」と言って来た時は、当直中の通信士は他の通信士を起こし、修理するのです。入港1〜2日前で
夜中なんて言う時は、航海士も顔を青くしていました。私は、またかと言う感じで、ポリバケツに道具一式、取説、テスター等を
入れて上がっていくのです。次席の点検している所を電灯で照らしたり、予備品を取りに行ったり、もっぱら"お手伝い"でした。
この船の時は、毎航海故障していました。

 修理成功の確率は、5割位だったと思います。直らない時は、船長の公用電報で、入港地での修理を依頼していました。
今は航海中の修理は行わず、その代わり各船ともレーダーは2台付いていると聞きました。

 また、2回目の富浦丸だった思いますが、他社より派遣されてきた次席通信士は、罫紙にカーボン紙を入れた状態で漢字を
使って受信していました。モールスの記事中、人名、固有名詞があると括弧して補足説明ありました。我々は、自分の当直中に
受信したものは、オーバタイムで国語辞典を引きながら、普通の文章に直すのです。当時はコピー機なんて言う物はありませんから、
罫紙にカーボン紙を3枚入れて書くのです。

 これが新米には大変なのです。局長、次席は書くのが早く、時々私などは「何時までかかっているんだ」と怒鳴りつけられました。
出来上がったものは、局長が目を通すのですが、時々「周東君、これ直せ」と突き返されました。
へたに「どこが違っているんですか?」等と聞いても、「自分で調べろ」と言われますから、間違った所を探し、違った字の所に
斜線を2本引き、脇に小さな字で訂正しました。ただ不思議な事に、字が下手なのは、どの局長も何も言いませんでした。

 また、見習い中のこの船で、短波送信機のある波がタンク回路で同調がずれてしまったのです。
次席が調整して、リモートコントロールにセットし、動作させるとまた、ずれてしまうのです。それで、私が夜間の当直で
誰もいない時間帯、夜の2時か3時頃、「俺だって通信士だ」と思い、やってみたのです。プレート電圧を下げるのを忘れて
やったのですから、プレートが燃えるように真っ赤になりました。冷や汗ものでした。球は大丈夫でした。何とか元どおりにしました。
この事は、局長や次席には知らん顔をしていました。

 この頃、気象電報を無断で送信しました。当然、後から見付かり、こっぴどく叱られました。理由は、本文の数字の順番が
違っていたのです。また、私の船酔いで吐くといけないので、無線室にポリバケツを置いてよいか、聞いたら
「だいたい、お前は精神がぶったるんでいるから船酔いなんかになるんだ。駄目だ」
と言われました。駄目なら駄目でいいや、吐きそうになったらトイレに行けばいいやと思い、何度かトイレに駆けて行きました。

 また、タイプ受信の練習等も当直中にやっていました。その他、三席は無線室の雑用一式、掃除(雑巾がけ、モップがけ)、
電池の充電(無線室と船内一般の非常用電源)、消耗品の補充でした。毎日の時計合わせが規則で義務になっていて、
これも三席の役目でした。これはJJYとか、  WWVH、必要に応じてその他を聞き、合わせます。業務日誌には時計を
合わせた時刻、何秒進ませたか、遅らせたかを記入します。当時の時計はゼンマイでした。

 次席の分担は、無線部の書類一式(月別、航海別)、それに無線設備保守一般が分担でした。局長は、入出港事務
(書類作成、官憲の応対)をほとんど一手に引き受けていましたから、これも大変でした。局長は、入出港手続きで乗船して
来る役人に対応し、全ての手続きを終え、入港が許可されると、書類を抱えニコニコ顔で無線室に帰ってきました。
無線部の3人の中で一番大変だったろうと思います。

 そんな訳で局長は新米の教育なんかに掛かっていられるか、という感じでした。局長の事務兼任は船主と海員組合との協定で
そうなっていたのです。当時は、ファックスなし、コピー機なし、ワープロもなし、パソコンなし、電卓なしですから、何もかも人力に
頼っていました。私も、船内事務の分担がありました。初航海から内地に帰って、下船者の雇止、代わりの乗船者の雇い入れの
事務(船員手帳に記入と、申請書を作って海運局支局に行って印をもらう事)がありました。また、これも船主と海員組合の協定でした。
新乗船者がすぐに船員手帳を事務室まで持って来てくれれば良いのですが、時には自分から探しにいかねばなりませんでした。
多い時は交代者が6〜7名もいましたから、結構大変でした。

 海運支局から帰り、下船者に船員手帳を渡し、無線室に上がってくると、局長が「どうだ、終わったか」と言うので、
「はい、何とか終わりました」と言うと、「ご苦労だった」と言う様な事を言ってくれました。

 航海士、機関士も通信士と同様に専門外の雑務を分担していました。また、停泊中にレーダーの修理があると、その立会いは大抵、
三席の私でした。停泊中も1日8時間労働の拘束があるのですが、無線部当直そのものはありません。局長、次席は外出します。

 立会いが終わり、私が外出しますと、無線部は留守になってしまいます。局長は、そう言う時は船長に話を付け、私の外出が
出来る様に取り計らってくれました。また、航海中に次席が社船連絡をやる時
「これができる様になれば一人前だよ。周東君が2名船に乗ったら、自分でやるんだからな」
等と言われました。

 半年間の員外通信士(見習い)も終わり、昭和41年9月16日、戸畑で下船することになりました。
下船に際し、次席は
「この無線通信士の海技試験は、殆どの者が1度で受かるんだからな、周東君も絶対1度で合格しろよ」
と言われました。乗船に際し、参考書と問題集は持って来たのですが、殆ど勉強しませんでした。懐かしい自宅に帰って来ても
余りゆっくりも出来ず、勉強しました。試験そのものは、常識的に見てたいした事はないのですが、学校時代は何をやっても成績の
悪い私ですから、試験が終わっても心配でした。

 また、JMCの気象ですが、もう少しましな天気図を船長に提出しようと思い、高校生向きの短波受信機のキットを買って来て、
組立て、天気図作成を練習しました。この短波受信機は、今でも自宅にあります。

 昭和41年11月19日神戸にて、2名船の島原丸に乗船しました。しかし、まだ海技免状はもらっていませんので、船員手帳は
員外通信士でした。昭和42年1月21日神戸にて、海技免状を受取りました。船員手帳では、まだ3直制は残っていましたから、
「執職二等通信士」となりました。会社からの辞令は「三等通信士」です。船内では次席さんです。

 職務は富浦丸時代の分担に加え、無線部書類の一式作成が加わりました。この頃はだいぶ慣れてきました。
今度は、自分が当直中に社船連絡をやることになったのです。だいたいの要領は、富浦丸時代に分かっていましたから、
それほど苦労はしませんでした。

 この船での楽しい想い出は、ある外国の港で10日間も沖待ちがあったのです。朝食が終わると、局長と二人で毎日お茶会でした。
まだ入港ではありませんから、500KHzは聴いていました。新聞電報、気象等は毎日受信していました。

 また、内地停泊中の話です。局長と二人でレーダーマストに上がりました。道具類はポリバケツに入れロープで引き上げるのです。
保守する所の蓋を開け、説明してくれるのです。回りには手摺りはあるのですが、怖い事この上ありませんでした。荷物を下げた
デリックが岸壁の方に移動すると、船が少し傾くのです。こういう高所作業は、後になってから労働協約で禁止されました。

 それから、前に書いた漢字を使っての受信の事、私の会社の通信士でも航行警報位は、漢字を使って受信する人はいました。
自分もそろそろ練習しようかな、と思っていたら、各船共ファックスが装備され初めました。
もう長い新聞電報(JJC)、気象電報(JMC)、航行警報等は、もうモールスでの受信は必要なくなったのです。航行している位置に
よっては、モールスでの短い局地気象は受信していた記憶があります。長時間のモールスの受信がなくなったのですが、何だか
寂しい気持ちでした。
 それに合わせるかの様に昭和42年12月、普通の貨物船では3直制は終わったのです。この時から、執職二等通信士と言うのは
なくなり、単に二等通信士となりました。

 ファックスになっても遠距離受信は、混信、雑音等はいつもあり、受信中に周波数を変える等、結構テクニックが必要でした。
どうにもならなかった時は、再送を受信しました。双方の良く受信出来ているものを切取り、糊で貼合わせ、掲示板に貼りました。

 電報のことですが、私の乗船中は日本船の隻数も多く、和文電報の取り扱いがピークに達していた頃でした。
海岸局がCQを出しても、呼び出すのは本船だけではなく、5〜6隻がいつもいっせいに呼び出すのですから、本船の呼出符号が
返って来るのは、非常に確率は低いものでした。
 当直を交代する時、局長が「周東君、QRY(順序通信)でも取らにゃ、もう通信出来んぞ」と言いました。
私はQRYだと連絡が取れても、電報の送受はずっと後になりますから、これは避けていたのです。しかし、もうそんな事は
言っていられず、以後QRYの時でも、根気良く呼び続けて取ってもらう様にしました。順番が7,8番位になると、時によっては、
局長の当直に引き継ぎました。

 当時、日本の短波海岸局である銚子・長崎両局を合わせても、周波数は30波近くありました。周波数も時々増波されましたが、
焼石に水の感じでした。特に船が送る気象電報は、ブリッジから気象レポートを受け取って20分位で送らなければならないので、
緊張度は最高でした。
 この島原丸は、昭和42年3月31日、神戸で社命下船しました。4月22日、再び最初の富浦丸に乗船、昭和43年1月24日広畑で
下船しました。昭和43年4月3日、雄鵬丸に乗船しました。

 この時の局長は、私が最初に富浦丸に乗った時の次席でした。私に不満だったかも知れませんが、職務上は何も
言いませんでした。
 この船では、社船連絡当番船になったのです。今度は前と違い当番船ですから、緊張度は前の船とは違います。
内容は各船共、その日の正午位置、乗組員の交代があれば、その乗下船者の氏名、必要があれば行き先、
あとは簡単な会話通信です。この社船連絡とは電報とは関係ないもので、通信士の親睦通信みたいなものでした。
この会社では、周波数は17MHz帯、W2(第2通信波)を使っていました。この他にC(呼出し波)と、通常電報の送受に使われる
W1がありました。定時刻に始まり、10分から15分位やっていました。各船は、私より経験豊富な人ばかでしたから、私も必死でした。

 それから、補助送信機、携帯用無線電信機は、一定の期間ごとに試験を義務づけられていました。
これは三席(2名船は次席)の役目になっていました。局長は「周東君、この補助送信機は、実際に使ってみればいいよ」と言いました。
私もなるほどと思い、私の当直時で、内地入港の時、TR(船舶動静)を送る時に使ってみました。75wで、中波を使うのですが、
"一発"で応答がありました。
この船は鉄鉱石専用船なので、出港前に送信アンテナの引き込み碍子を洗ったりしました。

この後に乗船した船で、船名等は覚えていませんが、思い出すままに書いてみます。

 ある時、当直していると500KHzで[XXX](緊急信号)が入って来たのです。信号は弱かったのですが、全文を受信してブリッジに
持って行きました。内容はラワン船が荷崩れを起こした、とのことでした。荷崩れの状態にもよりますが、大時化中でしたら、
いつ転覆するか分かりません。その後注意して聞いていましたが、何事もありませんでした。
 また沖待中の時、レーダーの球をバルブチェックしたことがありました。

 それから、無線室で電鍵を叩くと、どう言う雰囲気なるかというと、目の前にある送信機に電源を入れますと、送信管が電球の如く
明るくなります。電鍵を叩くと5台の受信機(短波受信機、中・短波受信機、補助受信機、警急自動受信機、船内拡声器の受信機)
それに送信機のブレ−クインリレーが一斉にガチャ、ガチャ鳴ります。短波受信機を使っている時は、通常は中・短波受信機の
電源も入っていますから、賑やかなものです。

送信機のメータの針が電鍵操作に合わせて振れます。室内にある銅パイプのアンテナに通信士が勝手に付けた蛍光灯が
"パカ、パカ"と光ります。この電鍵操作中が正に通信士冥利に尽きるというものです。

 また、員外通信士時代だったと思いますが、送信について次席から注意を受け、印象に残っていることがありました。
それは「送信はユックリと打て、字と字の間隔はきちんと開け、出来れば長音は少し長めにすることだ。速く打つと海岸局の
通信士は"しっぺ返し"で速く送って来ることがあるからな。通信が上手だと言う事は、受信が上手だということだ」と言われたことが
あります。この事は、無線学校の学生時代にも先生から言われたことがあります。私は、電報の送信、社船連絡の時は
いつもこのことを肝に命じて電鍵を叩きました。

 それから、電報を打つ時の気持ちですが、とても緊張します。特に外国の海岸局とやるときは尚更です。経験のある局長が
やる時でも、背筋を伸ばし、姿勢を正していました。
 電報は依頼者が代金を払うのですから、当然です。原紙が出来ると、絶対に間違いのないことを確認します。
海岸局を呼出すに際し、中波で送る時は注意を要します。船側の通信波、海岸局側の通信波を聴取して、自局の発射電波が
絶対に他船に迷惑をかけない事を、確認しなければなりません。他船が通信を終わった瞬間に、通信波で呼び出すのです。
混んでいる時は、遠慮していたら、いつ迄たっても通信できないのです。
 
 それから、海岸局のことですが、中波局と言うのは通信波を1波しか持っていませんが、JSM(潮岬局)だけは、2波持っていました。
それぞれの通信波に対し、船側もそれぞれの通信波が決められていました。もう1局、JCK(神戸局)と言うのがあって、
中波に短波を1波持っていました。何となく変わった局だなあ、と思っていました。
通常、短波局というと、JCS(銚子局)とJOS(長崎局)があって、短波で通信をやるのは、この2局が普通でした。

 以下は、追加的な文章になります

無線局の時間は、全てGMT(グリニッジ標準時)を使います。ログ(無線業務日誌)も全てGMTです。時間の認識としては、
時々JSTも使います。また、船内時間と言うのがあり、これは船内生活、作業、食事等の時間に使われます。船内の全ての
当直交代も、この時間で行われます。
 東西に航海する船は、毎日の時間を遅らせたり、または進めたりします。これは操舵手が船内を回り、時計
(当然、無線室の室内時計も)の針を合わせて行きます。無線室の業務用の時計は別にあります。通信士は、いつも
この3つの時間を頭に入れて置くことは、員外通信士時代に常に厳しく言われていました。
局長、次席も当直中は、人と話している時でも、常に時計に注意していました。

 船舶局の送信機出力ですが、遠洋区域を航行し、だいたい5,000 総頓以上は、短波送信機が1KW です。
中・短波送信機は、確か500Wだったかと思いますが、確かではありません。近海区域航行船は、500Wです。
1KW送信機は、大きな真空管が2本で、プッシュプルになっていた、記憶にあります。

その他、私が乗船中に色々経験した事を書いてみます。

 船内では、通信士を一般には、「無線士さん」と呼ばれていました。そして、当直で座っていられるのは無線部だけですから、
随分羨ましがられました。
 そして、私は2級(海技免状は乙種船舶通信士)でしたが、その事で偏見の目で見られたことは一度もありませんでした。
それどころか、通信士同士では、言葉に出しませんが、「俺達は、大型外航船の無線通信士なんだ」と言う気概が高かった様な
気がします。また、乗組員は通信士の国家試験が難しい事を良く知っており、どの船に乗船しても、「無線士さん、次席さん」と呼ばれ、
何となく尊敬の念で見られていました。
 それから、受信機の事ですが、どの船の受信機も甲乙付けがたい程に優秀でした。局発も安定していて、受信周波数は、
20〜30分位はダイヤルに手を触れずに、良好に受信できました。メインダイヤルは軽く、目盛りと受信周波数とはよく一致して
いました。今の時代では、何でもない事かも知れませんが、真空管時代に技術者は、大変な努力をしたと思います。

 私が船舶通信士を止めた(昭和45年8月以降の事ですが、昭和46年に乙種船舶通信士でも、限定された範囲の船で通信長
(通信長は法律用語、局長は俗称)の道が開けました。私は船員を止めてから1通を取得しましたが、諸種の事情で乗船しませんでした。
 最後に、今はもう真空管式送受信機も無く、無線室も無く、モールスも無くとても寂しい感じです。
員外通信士時代、泣いている余裕もない位、辛かった事、内地の海岸局と連絡をとる為、各船の通信士と競い合う様にして
電鍵を叩いた事、長時間のモールス受信の事、とても懐かしいです。
外国の港では、日の丸掲げた"マルシップ"があちこちに停泊しており、正に日本海運の全盛時代でした。

私の人生で一番充実していた時期でした。皆、良き思い出になっています。       以上

                                                   平成16年8月12日

                                                   ある中小労加盟の船会社 通信士 OB
                                                   周東 正順

 

補足:私乗船した思い出の船について記載しておきます。

① 富浦丸、JDLX 10,026総頓、15,557重量頓、鉄鉱石専用船、昭和34年11月竣工

  S41.3.12〜41.9.16 とS42.4.22〜43.1.24 と2回乗船しました。
  私が員外通信士(海技免許状修得の為、法律で半年間の見習い義務あり)として、初めて乗船した船です。


② 島原丸 JQJF 4,321 総頓 6,482重量頓 一般貨物船

  S41.11.19〜S42.3.31 迄乗船していました。昭和33年7月竣工


③ 雄鵬丸 JCLV 29,354総頓 当社と日正汽船との共有船(ページ初頭の画像の船舶)

S37.8月竣工、S43.4.3〜S43.10.8 迄乗船していました。鉄鉱石専用船 無線局の免許人は日正汽船、
私の所属していた会社との共有船との事でした。


④ 三鷹丸 JRST 5,768総頓 重量頓は不明 一般貨物船

S43.12.14〜S44.7.10迄乗船していました。

⑤ 銀嶺丸 3,885総屯 乗船履歴 S44.7.11〜S44.8.8

⑥ 筑前丸 25,709総屯 乗船履歴 S44.9.1〜S45.7.31

 
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