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<本稿について>
小笠原諸島が駐留米軍から返還となり、本土との公衆通信回線が開設された。
電信と電話の回線は、短波を使用し銚子無線の設備に併設された送受信施設との
間でリンクしたものであった。(
詳しくは本サイト小畑受信所を参照
筆者は公社時代から無線技術者として短波施設に関わり、小笠原父島送受信施設を
建設から運用まで担当された方である。
貴重な日本の通信技術史として本サイトに寄稿頂いた事に感謝いたします。
 以上pyonmizu

父島における短波回線の運用
筆者:T.Hoshi氏  編集:pyonmizu

 付属資料:短波多重回線の変調方式、スペクトラム)

 

島の中心部で、真ん中下の青い屋根のプレハブが通信所兼宿舎です。上の海を挟んだ対岸に送信所がありました(S48年当時)

父島における短波回線の運用は概ね下記の通りに分けられます

1)昭和43年返還後の短波電信回線の開通

2)昭和44年短波電話回線開通

3)昭和51年「夜明山送信所」「大根受信所」の開設

4)昭和61年短波回線の廃止と衛星通信時代
 

ステップ1)昭和43年返還後の短波電信回線の開通

昭和43年返還に伴い内地との電信回線が開通

コールサイン「JEB21」500WによるA1電波で銚子無線電報局を相手に運用を開始
通信所/受信所は現在の小笠原電話局のある「宮之浜道」、送信所は二見港を挟んだ
対岸の浜辺でした(地番なんてあったのかしら?)

建物はプレハブ作りのいわゆる工事現場の飯場みたいなもので、台風で飛ばされないよう
ワイヤーで地面に固定していました

宿舎は通信所/受信所に併設されており、内地から出張(主に銚子から)による運用です
(送信所は無人)

受信機はアンリツ電気の「ARR5904」管球式オールウェーブ受信機
送信機はJRC製多周波型と記憶しているが型式不明(小型の送信機でした)
アンテナはHFD(水平フォールデット・ダイポール)

 

ステップ2)昭和44年短波電話回線開通

昭和44年短波電話回線開通

運用は内地の関係部署から2ヶ月の出張(保守要員)で交代制です
(交換手(男性)と営業要員は3ヶ月)

<公衆回線としてSYS−1を設置>でんでんちちじま

短波SSB多重方式で1波2ch、パワーは2KW(PEP)です
(1chあたり500Wで多重化したときピークで2KWになります)

受信機は沖電気の「RRS−2」
送信機は国際電気の「TS−106」
受信アンテナはHFD
送信アンテナはSV(進行波形アンテナのスロープVです)


<専用回線(東京都庁用電話回線)>ぼうさいちちじま

こちらは1波1ch、500W

受信機は沖電気の「RRS−3」(基本構成はRRS−2と同じで多重化部分がありません)
送信機は国際電気の「TS−501」だったかな?
(基本構成はTS−106と同じで多重化部分がありません)
受信アンテナはHFD
送信アンテナはSV(進行波形アンテナのスロープVです)

 その後、公衆回線SYS−2を増設(正確な時期は不明)
まもなく、SYS−2はTS−106送信機及びRRS−2受信機を4ch多重に改造し、
8KWのリニア・アンプが追加されました(この時点で公衆6回線です)

 筆者は昭和48年夏に2ヶ月の出張で初めて来島しましたが、上記の構成に
なっていたと記憶しています
プレハブの送信所は換気装置だけでしたので室温が50度を超える状況です
故障修理の時などサウナ状態で体力勝負でした
又、このころは夜間になるとジャミング電波が飛び交い通信不能になるので、受信機に
付きっきりでチューニングと周波数変更(換波といいました)の連続です 
夜勤者は仮眠の暇もありませんでした
逆に全断のとき、交換手はのんびりとしていました

 

ステップ3)昭和51年「夜明山送信所」「大根受信所」の開設

送信所を作る前の旧日本軍の建物です。
上が電源棟で、下が送信棟です(S48年当時)

古い建物を利用して作った夜明山送信所の全景です 電源棟はそのまま残っています(S50年当時)

筆者が出張していたころから、本格的な送信所/受信所を開設するための調査チームがきていました
チームの応援で「大根受信所」の予定場所を探すため気象ドーム下の密林を歩きましたが、苦労の末
「旧逓信省受信所」の跡地を見つけました
「夜明山送信所」は名前どおり夜明山の山頂近くの高台にあった、旧日本軍の通信施設の建物を利用し
てつくられました
爆弾に耐えるためのコンクリート壁は2mもの厚さがありました

 昭和50年春、局舎工事が終わったころです
筆者は銚子から東京のエンジニアリング部門に移動になり、着任1週間後に父島への出張指示を受け
ました(竣工予定は昭和51年2月です)
10ヶ月あまりの孤島生活が始まりました 内地への帰還は2〜3ヶ月に1回位です(ネオンの恋しい年頃
でしたので結構つらいものがありました)

 当時のN社は、力仕事は外注でしたが試験を中心とした直営工事を積極的にやっていました
(特に辺地の工事は直営が多かったのです)
今回は稼動中の装置を移設しますので、長い工期を必要としました
継続して担当したのは椎柴出身の先輩と筆者の2人だけです
工程により応援がきますがピークでも5〜6人くらいでした

工事の手順は

1) 電源設備、空中線系の新設
通信所は従来どおりで、受信所は無人(リモート)になります

2) まずSYS−1の予備機を移設して新局で稼動させてから、次に現用機を移設します
(移設中は予備機が無くなりますので故障したら即刻修理です)

3) SYS−2も同様です

4) 都庁回線も同様です

 送信アンテナは相変わらずSVとHFDですが、受信アンテナに「スロープ・ログペリ」が採用されました
(予備はHFDです)
大根受信所の敷地は三日月山の中腹ですので、局舎のある平地以外は斜面でした
その地形を利用して傾斜形のログペリアンテナを建設したのです
NTT関係の送受信所では初めてでした(その後も見たことがありませんが、防衛庁の回転型に
ログペリはよく見かけます)
受信アンテナをログペリにしたことにより、混信に強くなり運用しやすくなりました

 10ヶ月あまりの工事を完了させて東京に戻ったときはさすがにホットしました
久しぶりに見たテレビで「股を広げながら歌う女の子2人組」を見て、なんてグループ?と聞いたとき
(飲み屋での出来事です)、貴方いったいどこからきたの?と言われました
それは一世を風びしていた「ピンクレディ」だったのです
それからテレビの無い小笠原の話で夜更けまで盛り上がってしまいました

 昭和52年にはSYS−3の増設工事があり責任者として担当しました
最初から4ch仕様の送信機/受信機です(TS−1801・8KW(PEP)及びRRS−2)
3ヶ月程かかりました


4)昭和61年短波回線の廃止と衛星通信時代

 その後、国内用静止衛星CS−2a/bの打ち上げに伴い小笠原電話局が通信所と同じ敷地に
つくられました
屋上にパラボラアンテナを設置して「小笠原地球局」が開設されます
昭和61年、短波回線の廃止により大根受信所は取壊されましたが、夜明山送信所は鉄塔1本を残して
DoCoMoの船舶電話と携帯の基地局になっています

あの局舎を取壊すのは難しいでしょうね

 以上、曖昧な記憶を繋げて書いて見ましたが不明なところはご了承願います

(了)

大根受信所入口の筆者です(S50年当時) なんせ暑いところですのでこんな格好で仕事をしていました

付属資料:短波多重回線の変調方式

<CNL方式の概要>

 CNL方式とは「コンスタント・ネット・ロス方式」の略です
KDD等の短波国際電話ですと「リンコンペック」と呼ばれていますが、CNLはN社が開発した方式です
短波回線に振幅変調で音声を乗せた場合、フェージング等の空間現象で受信電界レベルが変動した
場合、音声レベルも大きな変動を受けます(もちろんAGCは2重にかけていますが限界があります)
そこで変復調系に、「EC−2」と言う装置を付加します
この装置は音声の「周波数成分と振幅成分」を分けて、振幅成分をFS(周波数シフト)信号に変換します
FS信号は3.85Kc(だったと記憶しています)のサブキャリアに乗せて送受信機の変復調回路で
扱われます

EC−2は秘話回路も組み込まれていました
リンコンペックスの秘話回路は周波数反転方式でしたが、EC−2は帯域分割方式の厳重なものが採用
されていましたので解読するのが難しくなっていました


<短波多重の方式>

 2chの場合

SSBのキャリアに当たる周波数は、基本波より20db落として「パイロット信号」として2ndAGCに
使われます(1stAGCは通常の受信機と同じです)
LSB部分をch−1として、又、USB部分をch−2として別々の音声信号を伝送します

 

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